何が入ってるのかもわからない、ダンボール箱を乗せた台車を押しながら、
欠伸を噛み殺して夕食の献立を考える。
一人で食べるならその辺のコンビニ弁当で充分なんだけど、
しかしながら今夜は健二が遊びに来る予定が入っている。
別にフルコースのご馳走を用意する必要までは無いけれど、
それでも長年付き合った旧友が久しぶりに遊びに来るのだから、
それなりの物を出してやらねば、と思うくらいの付き合いはある友人だ。
「あいつ偏食家だからなぁ」
心の中でそう呟きながら、中身不明のダンボールを所定の位置に置く。
するとパートのおばちゃんの井戸端会議に巻き込まれ、
そして数分後には一掴みの飴を渡され解放される。
幾度となく繰り返し、そしてこれからも繰り返すであろう儀式を今日もひたすらと繰り返す。
職業に貴賎はないと言うけれど、少なくとも俺が死んでも日本経済には何の影響もないのだろう。
そもそも何の為に、こんなことをやっているのかを俺自身が把握出来ていない。
新入社員教育の時に、やたらと偉そうな小太りの先輩が何やら熱弁を振るってはいたが、
そんな説明など鼓膜を貫通して、地平線の彼方へと消えていってしまった。
ただ黙ってダンボールを台車に積んでは運ぶ。
それだけわかっていれば十分。
それが俺に課せられた使命なのだ。
地球の平和を任せられるよりかは、幾分重圧の少ない仕事ではあるが、
それでも賃金相応の責任感を背負って日々汗を流している。
誰にも馬鹿にされる覚えはない。
しかしこのダンボールには一体何が入っているのだろうか。

「そんな事よりさ」
狭くてボロいながらも、学生時代から愛着親しんだ我が家の食卓を挟んで座りながら、
コンビニ弁当を頬ばりながら健二は俺のそんな疑問を一蹴した。
そんな事とはなんだ、抗議してやろうかという思いが頭をよぎったが、
そう言われると確かに『そんな事』だ。
「今度千佳ちゃん誘ってダブルデートしようぜ」
「は?ダブルデート?香世子とお前と俺達で?」
千佳とは俺の彼女。
大学入学当初からの付き合いで、その期間はもうかれこれ5年にもなる。
一方香世子は健二の彼女で、高校の頃からずっと健二と付き合っている。
それにしてもダブルデートとは。
そんな単語を聞く機会が俺の人生にあったとはビックリだ。
「なんで?」
「なんでって。別に」
「普通に香世子と遊んでりゃいいだろが」
「お前も付き合い長いからわかるだろ?いつも一緒だと色々マンネリしてんだよ」
レンジが任務完了を知らせる音を鳴らす。
俺は怪訝な表情を浮かべながら腰を上げて、自分の分の弁当を取り出した。
「別にそれくらい良いけど」
「じゃあ決まりな。千佳ちゃんにも了承とっとけよ」
「香世子はいいのか?」
「大丈夫だろ」
俺は平静を装ってはいたが、内心色々な想いが頭を駆け巡る。
コロッケにソースをかける手も少し震えている。
そんな俺の動揺に気づく様子もなく、健二はTVを観ながら弁当をぱくついている。

俺と健二と香世子は、中学の頃からの知り合いで、ずっと3人で仲が良かった。
俺はとにかく容姿や内面における全てが平均的な男。
身長は170台半ば。足のサイズは26.5。初恋は幼稚園の先生。
一方健二はずっとサッカー部のエースで、見た目もどこぞのアイドルよろしく
キシリトール入りのガムのCMが似合いそうな風貌。
腹筋もうっすらと割れている。
適度に軽く、二枚目半なキャラを演じることも出来るとあっては、モテナイ訳がない。
演じるといえば、高校時代もその容姿を買われ、
演劇部のピンチヒッターとして何度か舞台が上がった事もあるくらいだった。
最初は本人も嫌がっていたけど、適正もあったのか、
最後の方にはわりとノリノリで演技をしていた。
今でも趣味で劇団サークルに所属して、たまに活動をやってるらしい。
何度かチケットを渡されたけど、男友達が演技してる姿なんて、
別に見たくもなんともないので行ったことはないが。
それこそ香世子が出ているなら話は別だが。
そしてその香世子。
初対面に人間には必ず「ハーフなんですか?」と聞かれる北欧風な彫りの深い顔立ち。
しかもそれを鼻にかけないあっけらかんとした性格。
こちらも当然モテない訳がない。
そして昔の俺は、そんな香世子に恋をしていた。
そんな3人組の末路は、言わずもがなだろう。
ただ不幸中の幸いは、俺が健二に相談する前に、
香世子が健二に告白をし、そして二人が付き合いだしたことだ。
当然俺の叶わぬ恋の話は誰も知らない。

勿論今でも香世子の事を想い続けている、なんてことは一切なく、
ちゃんと自分の彼女である千佳のことを大事にしているつもりだ。
しかしそれとこれとは話は別。
香世子と遊びに行くなんて、かれこれ何年ぶりだろうか。
高二のあの時以来、妙に気恥ずかしくなって上手く喋れなくなってしまった。
あれは偶然三人同じクラスになった高二の秋ごろ。
文化祭の準備で夜遅くまで教室で作業をする俺達三人と、他のクラスメイト達。
しかし、いつの間にか姿を消した健二と香世子。
なんとはなしに足を向けたサッカー部の部室。
中から漏れ聞こえてきたのは、当時AVでしか聞いたことがなかった女の喘ぎ声。
その声は、誰のものかわからないくらい、甘く甲高いものだった。
ただ時折聞こえる男の声は、昔から知っている親友の声で、
そして何度も香世子の名前を呼んでいた。
零れ落ちそうな涙をなんとか堪えながら、
壁に耳を当ててオナニーした17の夜を、今でも鮮明に憶えている。
初めて聞いた女性の生の嬌声は、どことなく悲しげで、
そしてどこまでも美しかった。
普段のややハスキーな香世子の声とは違い、その声は、
好きな男に求められている事を、
身体と心で悦んでいるのがありありとわかる、
甘く切ない上擦った声だった。
そのまま射精した俺は、生ける屍のごとくその場を後にし、そして数十分後、
何食わぬ顔で教室に戻ってきた二人を見て、俺の股間はまたもやむず痒さを覚えた。
注意深くみれば、ほんのり頬を赤く染めた香世子。
そんな彼女の皺になったブラウス。
そして作業をしながらも、チラチラと横目で健二に向ける熱い視線。
それを見た俺は、一つの諦観の域を悟った。
本当に欲しいものを手にすることが出来る人間など、一握りだけなんだと。

「あ、やべ。俺会社に電話しないと」
健二はそう言うと、あたふたと自分の上着をまさぐりだした。
しかし中々見つからないようで、「あれ?あれ?」と焦った声を出し始めた。
しばらくすると、諦めたようで、
「悪い、亮太。携帯失くしたかも。ちょっと貸してくんね?」
と頭を掻きながらそう言った。
俺は黙って自分の携帯を差し出す。
しかしその直後、あの事実を思い出して、慌てて取り返そうとするが、
時既に遅し、健二はニヤニヤしながら、
「お、何だかんだで、待受は千佳ちゃんなんだな」と笑いながら部屋を出て行った。
その背中を見送りながら、昔の思い出に浸り直す。
とはいえ、俺が部室の件を盗み聞きをしていた事実を二人は知らない。
だから俺が勝手に意識してしまっているだけだ。
とはいえそれも大昔のこと。
それ以降だって、別に疎遠になったわけでもなんでもなく、
健二は勿論、香世子とだって時々顔を会わすこともある。
でも今では、いわゆる最愛の彼女もいる。
そう思いながらも、昔の淡い恋心を思い出して、胸が高鳴ってしまうことに
千佳への罪悪感を覚えつつ、何食わぬ顔で引き続きコロッケにソースをかけていく。
そうこうするうちに、扉が開く音。
「いや、悪かったな。ほら」
「ん」
健二から携帯を受け取る。
するといまだ鼓動が早まっている心臓を、健二がさらに手掴みで揺らしてくる。
「んでさっきの話だけどさ、ついでにさ、途中で相手変えて遊ぼうぜ」
「は?」
「だから途中で別々になってさ。俺は千佳ちゃんと。お前は香世子と。勿論女側には計画は内緒な」
「は?え?なんで?」
「たまにはいいじゃん」
「お前は嫌じゃないの?」
「別に。お前以外だったら嫌だったかも。てかお前は?」
「いやそりゃ、でも、え?遊ぶだけ、なんだよな?」
「当たり前だろ。遊びだよ遊び。たまにはさ」
「ん……、まぁそれくらい、なら。てかお前にメリットねえだろ」
「何だよそれ?」
「いや俺が言うのもなんだけど、香世子と千佳ならさ……」
「あのさ、前から言おうと思ってたけどお前千佳ちゃんを過小評価しすぎ」
「いやそりゃ贔屓目なしで可愛い方だとは思うけど」
「そいつはご馳走様」
「でも香世子と比べるとさ。流石に……」
「あの子にはあの子の魅力があるだろ。結構ああいうのは隠れファン多いぞ?
 素朴で可愛いしっかりした奥さんって感じのキャラは」
うかうかしてたらその辺の誰かに取られるぞ?
健二は呆れたふうにそう言うと、俺のコロッケに箸を伸ばした。
イマイチ頭が上手く回らない俺は、それを黙って見送る。
浮気なんてする事もされる事も考えたことすらなかった。
そんな平穏で、穏やかな交際。
情熱的な恋愛なんて柄じゃない俺と千佳は、
付き合い当初から周囲には熟年夫婦と野次を飛ばされていた。
愛してる。
そんな恥ずかしい台詞、口が滑っても言えやしない。
高校時代のあの頃。香世子になら言えたかもしれないが。

「そういうわけだから」
「どういうわけ?」
目の前には、眉間に皺を寄せた見慣れた彼女の表情。
ただでさえ童顔なのに、ボーイッシュなショートカットで
その風貌はどことなく中性的にも見える。
その上小柄なものだから、年は俺と同じ23なのに、
親戚のおじさんには、未だに中学生と間違われるらしい。
何となく流れる沈黙。
休日の昼間だというのにガラガラの喫茶店。
「嫌なら断るけど」
「……別に嫌じゃないけど」
視線を外して不貞腐れたような口調。
どう見ても嫌そうだ。
「健二のこと嫌いだっけ?」
「そんなことないけど」
千佳はそう答えながらも、むすっとした表情で頬杖をつきながら、
アイスコーヒーの底に溜まった氷をストローで掻きまぜている。
不機嫌そうといえばその通りだが、いつもこんな感じといえばこんな感じ。
社交的で外面が良いわりには、俺に対しては無愛想でつっけんどん。
まぁそういうところは嫌いじゃない。
友人のカップルなんかを見てて、たまには甘えてきてほしいと思うこともあるけれど、
お互いベタベタするのは苦手だからこれくらいが心地良い。
「で、どこ行くの?」
引き続き億劫そうに溜息をつき、そう尋ねる千佳。
「遊園地だってさ」
「そう。楽しそうね」
ちっとも楽しそうじゃない口調でそう答える。
「乗り気じゃないなら別にいいぞ。いや本当に」
いっその事中止になった方がいい。
そんな気持ちも俺の中に微かにあった。
健二にとっては、いつもソースをかける目玉焼きに気まぐれで醤油をかける程度の
些細な遊びのつもりなんだろうが、俺にとっては色々な意味で少々刺激が過ぎる。
「だから別に嫌じゃないってば」
彼女は一層眉間に皺を寄せると、視線を明後日の方向に向けてしまった。
その横顔を見て、昨日の健二の言葉を思い出す。
付き合いが長いからついつい見過ごしてしまいがちだが、
確かに千佳は千佳で可愛い。
どうも判断基準を香世子にしてしまいがちだ。
良くないことだとはわかってはいる。
それだとその辺の売れないアイドルも可愛くないことになってしまうだろう。
千佳本人には言ったことがないが、何気に耳の形が良いと思っていて、
それが完全に隠れるくらいには髪が伸びている。
「髪伸びたな」
「そりゃ生きてるからね」
「それもそうだな」
彼女は鼻でふっと笑った。
「何あんた?あたしのこと人形かゾンビだとでも思ってたの?」
「ゾンビは髪伸びるだろ」
「伸びないわよ」
「何でわかるんだよ」
「常識よ常識」
「そんなの学校じゃ教えてくんなかったぞ」
「亮太が聞いてなかっただけよ」

喫茶店に静寂が戻る。
聞こえてくるのは古臭いアイドルソングと、店の前を走る車のエンジン音だけ。
それでも不思議と気まずい空気は流れない。
俺と千佳のいつもの時間の過ごし方。
下らない会話と、そして静寂。
心は凪いだように穏やかで、安心する。
そうは言っても俺も一応は若い男なので、家で二人きりだとたまにはムラムラきて押し倒してしまう。
千佳は抵抗しない。
耳元で、「いいよ」と優しく呟いてくれる。
千佳は小柄で華奢に見えるわりには、脱いだらわりとグラマラスな身体をしている。
細身なのにその色白な二の腕や太ももは、
むちむちと抱き心地が良い肉が詰まっている。
幼い童顔にそのいやらしい身体つきは、どれだけ抱いても背徳感に駆られて興奮する。
そんな事を考えていると、少し股間がそわそわしだしてきた。
そういえばコンドームを切らしていた気がする。
帰り際買って帰ろう。
大抵いつもコンビニで買うのだが、千佳は恥ずかしいのか一緒にレジまで着いては来るものの、
いつも後ろで俺のシャツの裾を指で摘みながら、会計が終わるのをじっと待っている。
一度振り返って見たら、耳まで真っ赤にして俯いていた。
そんなに恥ずかしいのなら、外で待ってればいいと提案したこともあったが、
「……でも二人で使うものだし」とやはり不機嫌そうに口にする。
それなら俺が一人で買いに行くというのも、同様の理由で却下。
よくわからん。
その千佳は今、肩に届くかどうかというくらいの自分の髪の先を摘んで、
くりくりと指先で弄んでいる。
「伸ばすの?」
千佳は無言で首を横に振った。
そして一呼吸置いて
「どうせ似合わないし」と呟く。
そんな事無いと思った。
絶対似合うと思ったし、一度見てみたいとも常々思っていたのだが、
なんだか口にするのは気恥ずかしく、
結局のところガラガラの喫茶店には、
また古臭いアイドルソングだけが流れ続けた。

それから一週間。
明日に迫ったダブルデート。
途中で別々に分かれる段取りもばっちり。
健二の言うとおり、別に何かするってわけじゃない。
数時間女友達と遊ぶだけ。
それだけのことだ。
スワッピングなんてプレイが世の中にはあるそうだが、考えただけで身の毛がよだつ。
いくら昔憧れていた女の子を抱けると言われても、
千佳が他の男としてる姿なんて考えたくもない。
しかしたまにはこの程度の刺激があってもいいだろう。
実際俺と千佳も、倦怠期とまではいかないが、
変わり映えのしない毎日に少し飽きが来ていたところだ。

千佳が心配じゃないわけじゃない。
ただ健二が言っていた通り、俺も健二以外ならこんな話は受けなかっただろう。
信頼できる親友同士だから出来ることだ。
しかしそうは言っても、布団に潜り込んで目を閉じると、
千佳に対する罪悪感に襲われる。
やっぱり止めようか。
そう思い直し携帯を手に取るが、しばし液晶を眺めた後、
結局クッションの上に放リ投げてしまう。
皆も折角の休日に予定を入れているんだ。
今更そんな我侭は筋が通らないだろう。
千佳と健二が二人っきりになったところで、何があるわけでもない。
俺と香世子にとってもそう。
ただの遊び。
そう自分に言い聞かし、瞼を閉じた。





健二君とは何度か会った事がある。そうでなくても亮太の話には大概出てくる。
少し軽そうなところが鼻につくとこがあるけれど、別に悪い人ではなさそうだ。
まるで芸能人みたいな整った風貌で、逆に怖い。
香世子ちゃんも何度か会った事がある。
それも顔を合わした程度で、ちゃんと話しをしたことは無い。
問題はこの子だ。
いや問題というのは語弊がある。
彼女自身には何も問題はない。
問題が無いどころか、あたしを含め、現代日本の大多数の女子の理想を具現化したかのような女性。
顔は文句無しに可愛い。
可愛いというより美しい。
外国人の親戚でもいるんだろうか?
体型もあたしと違って、長身でスラリとしている。
そして何より、それを鼻にかける様子など微塵も感じられない、嫌味のないサバサバした性格。
しつこいがあたしは香世子ちゃんが嫌いなわけじゃない。
むしろ心の底から憧れる。
もはや嫉妬するのも馬鹿馬鹿しいほどの差だ。
もし普通に出会っていたのなら、ずっと遠くからチラチラと眺め続けた挙句、
勇気を振り絞って友達になってほしいと話し掛けていただろう。
しかしやはり大きな問題がある。
それは亮太の馬鹿が、多分昔香世子ちゃんの事を好きだった、という事。
何度か冗談っぽく、亮太本人に聞こうか悩んだが、結局止めておいた。
きっとその通りなんだろうし、聞いたところで素直にそう答えるわけがない。
亮太はそういうところが優しい。
それにその事実を確認しても、ただ結局あたしが凹むだけだ。
あたし自身が香世子ちゃんに女性として見劣りするのは最早敗北感すら感じない。
夜空を見上げて、輝く星に負けたと打ちひしがれる人間なんていない。
でも大切な人が隣で、その星をうっとりと眺め続ける姿はあまり見たくはない。
何年付き合おうが、亮太にはあたしを見ててほしいと思ってしまう。
そんな事を思いながらも、そんな想いを亮太に伝えることが出来ず、
家に帰ってから歯痒い思いをすることも少ないない。
小さい。
女性としてどころか、人間としても遠く及ばないと自己嫌悪に陥る。
ちゃんと喋ったことはないけれど、きっと彼女は器が大きく、包容力もあるに違いない。
こんな事を考えている事自体、矮小だと自分でも呆れ返ってしまう。

健二君と香世子ちゃんは絵に描いたような美男美女のカップルだ。
別に亮太だって負けてはいない。
いつもぼさーっとしているけど、たまに凄く男らしくて、そしていつも優しい。
不器用で、気の利かないあたしと黙って一緒にいてくれる。
亮太はあたしとの時間を楽しんでくれているのだろうか。
たまに不安になる。
あまりそういうことをお互い喋らないから。
それにしても遊園地か。
付き合い始めのころに、何回かデートして以来だ。
普段は亮太のアパートでごろごろしてる事が多い。
亮太はたまに気を遣って、どこかへ行こうかなんて提案してきてくれるけど、
あたしが面倒臭いと断ってしまう。
素直に、ただ二人きりでいたいと言えたことがない。
どうせだったら、たまの遊園地も二人で行きたかった。
手なんか繋いじゃったりして、亮太の好きな出汁巻き卵をいっぱい入れたお弁当持って。
でももう話がついてるんだから、亮太の顔を潰さないためにも、今更断ることなんて出来ない。
今度は二人で来ようね。
ダブルデートが終わったら、ちゃんとそう素直に言えるといいな。





おあつらえ向きの晴天に恵まれた当日。
梅雨も明けてそろそろ夏本番といった日差しが痛いくらいに眩しい。
事前に合流し、待ち合わせ場所でもある現地に向かった俺と千佳を出迎えたのは、
既に到着していた香世子だった。
「おっす。久しぶり亮太。千佳ちゃんもおひさ」
香世子は千佳と同じようなTシャツにジーンズといったカジュアルな服装だが、
スラリとした長身の香世子は、まるでファッション誌のモデルのよう。
「久しぶり。健二は?」
「トイレー」
香世子はそう答えると、小走りで俺の脇にいた千佳の下へ寄ると
「なんか本当久しぶりだね」と屈託の無い笑顔で千佳の手を取った。
千佳はどこか気後れした様子で、「あ、うん」とだけ返事。
「亮太のお守り大変でしょ?なんか粗相したら何時でもあたしに相談してね」
台風一過の後の晴天のような笑顔を浮かべる香世子とは対照的に、
やはり千佳はどことなく煮え切らない苦笑いを浮かべるだけ。
もしかして香世子のことが苦手なのだろうか?
そんな考えが一瞬頭によぎるが、どう考えても千佳が嫌いなタイプの人間じゃない。
そうこうするうちに、遠くから手を振りながら健二がやってくる。

俺達は挨拶もそこそこに、パスを購入しゲートをくぐった。
最初は男同士と女同士で並んで歩くことが多かったのだが、
香世子が積極的に千佳に話しかけているうちに、
どことなく乗り気じゃなかった千佳も、
だいぶ自然な笑顔を浮かべ、香世子と楽しそうに会話をするようになっていった。
外面用じゃない、気を許した人間にしか見せない笑顔だ。
しばらくするとこれ見よがしに、女性二人で俺と健二への文句や失敗談なんかで
会話に花を咲かしているようで、俺は少しほっとした。
このまま普通に四人で遊んで終わり、で良い気がしてきたのだが、
お昼を食べ終わり、健二が「じゃあそろそろな」と耳打ちしてきたので、
まぁ特に反対する理由もなく、それに従うことにした。

作戦は簡単なものだった。
実施されてるスタンプラリーを二組に別れて、回って競争しようと提案し、
その際コンビを決めるクジに細工をしておくというだけのもの。
誤算だったのは、千佳と香世子が思ったより仲良くなっており、
男組と女組で別れて回ろうと逆に提案してきたことだったが、
なんとかそれはなだめ、そして作戦を実行した。
俺と香世子がペアになると決まった瞬間、千佳は苦々しい表情を一瞬浮かべたが、
「襲われたら遠慮なく蹴り飛ばしてやってね」
と香世子に助言(?)を与えていた。
手はず通り二方向に別れてスタンプラリーを始める俺と健二。
二手に別れる際、千佳は何度もこっちをちらちらと振り返っていた。
つまり、俺も何度も振り返っていたのだが。

「何か久しぶりじゃない?亮太と二人って」
「そうだな」
思っていたより緊張しない。
香世子の話しやすいキャラのおかげだろうか。
あまり男や女を意識していなかった、中学の頃の雰囲気に戻った気さえする。
「何ぼーっとしてんの?」
「いや何でもない」
「千佳ちゃんが心配とか?」
「まさか」
そんな会話を交わしながら、香世子はにやにやしながら肘で俺を突付いてくる。
「今まであんまり喋ったことないけど、本当良い子っぽいね。可愛いし」
ともすれば香世子のような子が、他の同性を可愛いなどと評すると、
逆に反感を与えてしまいがちだが、こいつは本当に可愛いと思った子にしか
そう言わないのを俺は知っている。
「俺には勿体無いな」
冗談っぽくそう言ったものの、実は内心本気だったりする。
「そうそう。ちゃんと大事にしてやんなよ」
不思議なもので、こうして話をしていると、昔自分が香世子に想いを馳せていたということが、
まるで嘘だったかのように自然に接することが出来る。
千佳と一緒に過ごし、積み上げてきた長い時間が、いつの間にか香世子への憧れすらも、
ただの思い出にしてしまったらしい。
少し寂しい気もするが、同時に安堵感すら抱く。
「お前と健二はどうなんだよ?」
「別にー。まぁあたしら長いからさ。ぼちぼちって感じ」
「結婚とかは?」
「うーん。どうだろ。流石にまだ少し早いかな」
「でも考えてはいるんだ?」
「そうだね。まぁそのうちね」
一見楽しそうに会話をしながらも、俺の心には少しづつ違和感が芽生え始めていた。
それは千佳に対する罪悪感。そして焦り。
今日まで、千佳が健二と二人で遊ぶことくらい、何の問題も無いと思っていた。
そう思いたかった。
しかしその焦燥感は、胃の奥から喉元までじわじわとせり上がってくる。
千佳が自分以外の男と二人きりで遊んでいる。
その事実による息苦しさは、想像していたものとはまるで違い、
それは胸が張り裂けそうなくらいに、急激に膨らんだ。
香世子はそんな俺の様子を読み取ったのだろうか。
「もしかして千佳ちゃんの心配してる?大丈夫だよ。あの子亮太ラブっぽいし」
「別にそんなんじゃないし」
「本当に?ちょっとは心配してるんじゃない?健二が襲っちゃうかもよ?」
「お前の彼氏だろうが」
「あはは。冗談冗談」
「お前は嫉妬とかしねーの?一応他の女と二人きりなんだぞ?」
「えー、そんな事言っても所詮同じ敷地内にいるんだしさ。それにクジの結果だし仕方ないじゃん」
それもそうだと納得する。しかも精々一時間程度だ。
そんな俺を尻目に香世子は続ける。
「それにあたしは信頼してるし。健二のこと。勿論ちょっとは嫉妬するけどね。千佳ちゃん可愛いし」
俺は何て返事をすべきかわからなくて、黙ってしまった。
千佳となら気にならない静寂。
でも他の女の子となら、これ以上気まずい空気はない。
「そんな気になるなら合流する?」
香世子が苦笑いを浮かべ、そう尋ねてくる。
「いや、本当大丈夫だから」
確かに精々同じ敷地内。
気にしすぎだ。
急いで回れば数十分だろう。
その間、旧友と楽しむことに集中するほうがよほど生産的だ。

どこか心の片隅にちくりと小骨が刺さったような痛みを抱えながら、
俺は香世子との一時を、過去に憧れた女の子としてではなく、
あくまでただの古い友人として楽しんだ。
しかし、やはり千佳のことが脳裏によぎっては、それを振り払うことを何度も繰り返す。
それは誤魔化そうとすればするほど、目を逸らそうとすればするほど、
大きな後悔に囚われていった。
「千佳ちゃんってさ」
「え?」
「おっぱい大きそうだね」
口に含んでいたコーラを噴出しそうになる。
「……急になんだよ」
「別に。あたしちっちゃいからさ。羨ましくて」
そう言いながら自分の胸元をさすり、口を尖らす香世子。
確かに千佳は結構豊満なほうだ。
形も綺麗なお椀型だし、乳首も色素の薄いピンク。
それほど巨乳というわけではない。
ぎりぎりDあるかどうかというくらいだろう。
しかし小柄なせいか、どうもサイズより大きく見える。
正上位や騎乗位だと、まるでプリンのように良く揺れる。
ただ香世子も別にそれほど小さいというわけではない。
勿論直接お目にかかったことなどないが、
昔健二にBカップということを教えてもらい、
それをネタに何度か抜いたことがある。
「でかけりゃいいってもんじゃないだろ」
「本当にー?」
「本当。健二だってそうさ」
実際のところ、健二の胸の好みなど知らない。
ただ香世子に対しての不満を聞いたことがないのは事実だ。
「そうだったらいいけどさ」
伸びをしながら、投げやりな感じでそう口にする。
それを尻目に、最後のスタンプを押し、俺達は合流場所に向かった。

「お、まだ来てないね。勝った勝った」
香世子の言葉どおり、まだ健二と千佳の姿は見えない。
少し鼓動が早まる。
それから数分待っても二人の姿はない。
やたらと喉が渇く。
馬鹿馬鹿しい被害妄想に囚われ始めたその時、ようやく健二が手を振って
こちらに近づいてくる姿が見え始めた。
その脇には千佳の姿。
胸を撫で下ろす。
こんなにも愛しい存在だったとは、今まで気づけなかった自分に腹が立った。
「おっそーい。どこで油売ってやがったー」
笑顔を浮かべ、健二に軽くタックルをかます香世子。
その横で、千佳はどこか浮かない顔で視線を伏せていた。
どうかしたのかと尋ねようとすると、健二が先に口を開く。
「途中で千佳ちゃんちょっと気持ち悪くなっちゃったらしくてさ。
 それで休み休みだったから遅くなっちまって」
「えー本当?大丈夫?」
健二から離れ、千佳の傍に駆け寄る香世子。
千佳の顔は、言われて見れば少し青白く、
「あの日?」と小声で呟く香世子に対し、
「ううん」と苦笑いを浮かべて、やはり小声で答えていた。
日射病かもしれないと思い、俺は千佳の手を取り園内の救護センターに連れて行った。
特に問題は見当たらず、軽度の貧血かもとの診断。
自分で歩けるし、別に眩暈や悪寒もないとの事だが、念のため少し休ませることにした。
当然俺は休んでいる千佳の傍にいることにした。
健二と香世子も一緒にいると提案してきたのだが、それは悪いと千佳が断ったため
「俺達がいると余計気にしちゃうか」と健二は香世子を連れて別行動を取った。

「ごめんね」
ベッドで横になりながら、力なくそう呟く千佳。
俺は無言でその頭をそっと撫でる。
「俺こそ朝気づけなくて悪い」
「……さっき、ちょっと気持ち悪くなっただけだから」
と言い立ち上がろうとするので、無理矢理制止してまたベッドに寝かせる。
「たまにはこんなとこで昼寝もいいだろ」
「亮太ジェットコースター嫌いだもんね」
「そうそう。ここでぼんやりしてる方が性に合ってるよ」
「……ねぇ?」
「ん?」
「ごめん……なんでもない」
結局その後も、千佳は元気だと言うのだが、恋人交換なんて罪悪感からか、
とにかく千佳の大切さが身に染みた俺は、健二と香世子に一言謝り、
大袈裟だと呆れる千佳を病院に連れて行った。
診断は何も問題無し。
強いて言うなら、少し貧血気味だったのかもしれないとのことだった。
病院の帰りは、滅多にしないのだが、千佳と手を繋いで家路についた。
介護的な意味もあったが、それ以上に、単に大切な人の手を握りたいと思ったから。
「ごめんな。気づいてやれなくて」
「ううん、いきなりだったから。てゆうか大袈裟だって。本当たいしたことないから」
弱弱しく笑みを浮かべて、そう言ってくれる千佳。
健二から今回の件を提案された時、たとえほんの一瞬でも、
千佳以外の女性に下心が浮かんだことを心から恥じた。
結局後悔と罪悪感だけが残った一日だった。





家の玄関のドアノブに手を掛ける。
ふと後ろを振り返ると、徐々に遠ざかっていく亮太の背中が見えた。
何となく目が離せずに、しばらくその背中を見つめていると、
豆粒程になった亮太もこちらへ振り返り、そして手を振ってくれた。
思わず笑みがこぼれてしまう。
あたしは胸の前で、小さく手を振り返した。

部屋に入ると、ベッドの上に倒れこんだ。
どっと沸く疲労感。
別に病気なんかじゃない。
気分が悪くなったのは確かだけれど、でも原因ははっきりとしている。
色々な考えが頭の中を駆け巡る。
とりわけ健二君のあの言葉が、重く、大きく残響を繰り返した。
そんなはずは無いと思いたいのに、
心のどこかで、それを否定しきれない自分がいる。
その可能性を、認めてしまっている自分がいる。
大きく溜息をつく。
気を抜くと泣いてしまいそうだ。
外を見ると、すっかり陽が暮れてしまっている。
健二君や香世子ちゃんにも悪いことをしてしまった。
二人はもう今頃帰ったのだろうか。
もう閉園の時間だ。
当然帰っているのだろう。
場の空気を悪くしてしまったことを、後でちゃんと謝らないと。
そんな事を考えていたら、携帯がメールの着信を知らせた。
嫌な予感がした。
確かめたくないという恐怖心。
知りたいという好奇心。
どちらが勝ったのかはわからないが、とにかくあたしの右手は、
携帯を手繰り寄せ、そして開いた。
『今日はちゃんと寝とくように』
絵文字も装飾も無い、その素っ気無い亮太からのメールに、
あたしは心の底からの安堵を感じた。
何年もずっと一緒だったあたしだからこそ、
感じられる亮太の愛情。
健二君のあの言葉は、きっと何かの間違いだったんだろう。
亮太のことを信じ切れなくて、胸が奥がちくりと痛む。
香世子ちゃんにも申し訳ない。

彼女はやっぱり同性のあたしから見ても素敵な女性だった。
朝のあたしは、きっと劣等感と警戒心を丸出しで、感じが悪かったに違いない。
それなのにとても気さくに接してくれた。
楽しかった。
嬉しかった。
あの言葉を聞くまでは。
クジであまりに都合の良い組み合わせになったことに不信感を持ったあたしは、
何か仕組んだのかと冗談で健二君に尋ねてみた。
いっその事、聞かなきゃ良かった。
「亮太の方から提案してきたんだよ」
嘘だ。そんな事するはずない。
「お互い付き合い長いから結構マンネリしてるでしょ?」
してない。余計なお世話だ。
「あいつ昔香世子の事好きだったみたいでさ」
知ってるよ。だから?
「まぁお遊びだよ。浮気なんて大層なもんじゃないさ」
嘘だ嘘だ。亮太はそんな事しない。
きっと何かの誤解か、それとも健二君が嘘をついているに違いない。
でも嘘だったら何のため?
亮太が香世子ちゃんと遊びたかったから?
わからない。
とにかく頭の中は、空き巣に荒らされたみたいにもうグチャグチャになった。
帰り際にちゃんと亮太に聞けばよかった。
でもやっぱり、そんなの怖くて出来ない。
もし認められたら、どうしたらいいのかわからない。
だから、きっと、健二君の嘘だって、自分を誤魔化そうとしている。
でもきっと、それじゃ駄目なんだ。
あたし達の為にならない。
だからせめて、まず健二君の話を聞こう。
そう思い、あたしは携帯を手にすると、新規メール作成ボタンを押した。
「昼間の話です。『証拠』って何?」

夏の夜の、田舎のコンビニは悲惨だ。
蛍光灯に虫が寄ってきて、それは虫嫌いなあたしにとって、
直視できないほどに、グロテスクな光景になる。
そちらを見ないようにしても、不愉快な羽音が絶え間なく鳴り響く。
中に入って、雑誌でも立ち読みしながら待っていた方が、
何かと効率が良いのはわかってはいるものの、
どうにも気が急いてしまい、そんな気になれなかった。
コンビニの中からは、部活帰りの男子高校生が群れをなして出てくる。
彼らはそのまま腰を下ろし、アイスを片手に談笑を始めた。
その会話は高校生らしく、部活のことや受験のこと。
そして家族や先生の不満を、楽しそうに連ねているものだった。
別にそんな会話に興味は無かったものの、
声が大きいのでどうしたって会話は聞こえてくる。
やがてその話題は、どうもあたしの事に移ってしまったらしく、
ひそひそと、「おい、誰か声かけてこいよ」という声すら聞こえてきた。
やっぱり中で待っていようか。
そう思いなおし、足を入り口に向けようとした刹那、
「ねえ。君どこの学校?」と、群れの誰かに声を掛けられてしまった。
無視してやり過ごすにも、逆に面倒になりそうだと判断し、
「あたし、社会人だけど?」と無表情のまま、彼らを見下ろし淡々と口にした。
高校生達は、一瞬きょとんとした表情を浮かべ、
その中の一人が苦笑いで「あ、すいません」と謝った。
その直後、近寄ってくる車の音。
それはやがて、丁度あたしの前に停まり、そしてその運転手は、
車の中に入ってくるように、あたしに向かって手招きをしてきた。
あたしはこの場を離れたい一心で、それに素直に従う。
車に乗り込もうとする背後から、「絶対年下だと思った」と声が聞こえた。
もうこんな事は慣れっこだ。
童顔を理由に、子供扱いされる事に、過剰に反発するほど未熟じゃない。
かといって、それを利用するほど大人にもなれないんだけど。
たまに亮太が可愛いと言ってくれるのだから、
それだけで充分すぎるほど、親に感謝している。

「あの子たち知り合い?」
「全然」
「ナンパされたの?」
「別に」
「千佳ちゃん大変でしょ?そういうの」
「そんなことない」
「亮太から聞いたよ。芸能事務所とかにも声掛けられたことあるんだって?」
「トシ教えたら謝ってどっか行っちゃったけどね。……ていうか、今はそんな事どうでもいんだけど」
健二君は、エンジンを掛け直すと、滑らかなハンドル捌きでコンビニから離脱した。
「その辺で止めて」
「なんで?このままドライブしようよ」
「止めてってば」
軽く溜息をつくと、彼はそのまま路肩に車を停めた。
「それで?証拠って?」
「そんな認めたくないの?」
「そういうわけじゃ……ないけど」
「まぁいいけど」
健二君はごそごそと自分の上着をまさぐると、携帯を取り出し、
何やら操作をすると、その液晶画面を、あたしの眼前に突き出した。
そこには、確かに亮太のメールアドレスから、
『香世子と久しぶりに遊びてー』
『ちょっとだけ千佳と交換しようぜ』
『最近マンネリでさ』
とメールが来ていた。
何かの間違いだと、何度も読み返した。
しかしその文章や送り主は、けして変わることはなかった。

「別にさ、浮気とかそんな大したことじゃないよ。
 俺も男だし、気持ちわかるからさ」
肩を震わせ、涙を流し続けるあたしの頭を撫でながら、健二君はそう囁いた。
返事をする余裕などなく、ただしゃくり上げて泣くあたしを優しく慰めるように
「ほら倦怠期ってあるじゃん?これからも千佳ちゃんと上手くやっていきたいから
 あえて刺激を求めたってことなんだと思うよ?」
そんな理屈は聞きたくないし、理解もしたくない。
あたしは、ただ泣き崩れた。
悔しくて、悲しくて、情けなくて、何が何だかわからなくて。
あたしは、亮太と、二人で、穏やかな時間を過ごしたかっただけなのに。

ひとしきり涙を流し続けると、幾分気持ちはすっきりとして、
頭の中でごちゃごちゃに絡まった感情や思考を、
少しづつ紐解いていく事が出来た。
不思議と亮太への怒りはなかった。
ただ、悲しかった。
最愛の人から、自分が大切にされていないという事実。
勿論あたしにも問題はあったんだろう。
素直じゃなくて、可愛げもなくて、気の利いた会話も出来ない。
そりゃ香世子ちゃんみたいな女の子が身近がいるのなら、
あたしに嫌気が差しても仕方がないかもしれない。
でも、それでも。
やはり話して欲しかった。
二人のことを、二人で話し合いたかった。
お互いの嫌なところや、直して欲しいところを、
ちゃんと話し合って、それでこれからも一緒に時間を共にしたかった。
いや、今でも、したい、と思っている。

涙は止まったものの、まだしゃっくりが止まらないあたしの頭を撫でながら
健二君は「亮太のこと、止めれなくてごめんな」と謝った。
「そんなこと、ないよ」
そう伝えようと、口を開けようとした刹那、
あたしの唇に、突然何か暖かく、そして柔らかいものが触れた。
目の前には、触れ合いそうなくらい、間近に健二君の顔。
実際、あたしの唇は、健二君のそれと押し付けあうように触れていた。
あまりに突然のことに、あたしは固まって動けない。
ゆっくりと、健二君の顔が遠ざかっていく。
そして
「でもさ、俺も千佳ちゃんのこと、ずっと好きだったから、断れなかった」
と、真剣な眼差しでそう言った。

そしてもう一度ゆっくりと顔を近づけてきて、
でもそれは必死に抵抗しようとした。
それは嫌悪感とかではなく、ただ単純に驚いたから。
どちらにせよ、とにかく健二君とそんな事は出来ないと思った。
亮太と、香世子ちゃんの顔が、気の抜けた炭酸のように、
パチパチと脳裏で弾けた。
あたしは全力で抵抗したつもりだった。
でも、ただでさえ非力な上に、向こうはずっとスポーツをやっていた男の人で、
何よりあたしの体力は、つい先ほどまでの号泣で底をついていた。
もう一度、あたしと健二君の唇が触れ合う。
自分の舌を噛み切りたいと思うほどの罪悪感。
目を瞑り、亮太の名前を、頭の中で何度も繰り返し呼んだ。
こんなのはキスでもなんでもない。
そう自分に言い聞かせた。
なのに、健二君が顔を離すと、
口元に寂しさを憶えてしまった自分に腹が立つ。
「亮太のこと忘れさせてやるから」
色々と言いたい事や、聞きたい事があった。
でも、あたしの口から出たのは、たった一言。
「忘れられるわけ、ないよ」
そして、もう振り絞る力すら無かったけれど、
それでもあたしの平手が、健二君の頬を叩いた。
ハエすら殺せないであろう程に、それは弱弱しいものではあったけれど、
あたしの断固たる拒絶の意思を伝えるには充分だったようだ。
その乾いた音の後、数秒の空白が訪れ、
そして「家まで、送るよ」と健二君の溜息交じりの声。
それに対し、「亮太のアパートまで……お願い」と返答。
図々しいお願いだったのかもしれない。
しかし今だ混沌としているあたしの頭では、
今すぐ亮太に会い、そしてちゃんと話し合いをすることしか考えられなかった。


気まずい無言の空気の中、車が発進した。
その途中、健二君が友達にメールを送りたいと、一度路肩に停まったが、
それ以外は真っ直ぐ亮太のアパートに向かった。
10分くらいだったろうか。
その間、あたしの頭の中は、亮太のことで頭が一杯だった。
これからどうしたらいいのだろう。
もしあのメールを亮太が認めたら、あたしはどうするべきなんだろう。
別れる?
それは嫌だ。
でも許せない。
でも許したい。
矛盾した感情が、同じ場所を延々と走りまわる。
ただ一つわかっているのは、たとえ亮太の気持ちがあたしになくても、
あたしは亮太が好きだということ。
とにかく、その気持ちだけでも正直にぶつけたい。
しかしあたしのそんな想いは、すぐに打ち砕かれることになった。

亮太のアパートの前に着く。
あたしは一言お礼を言って、車を降りようとした。
その際、健二君に呼び止められる。
「もうちょっとだけ、話をしたいんだけど」
「ごめん」あたしは再度ドアノブに手をかける。
「ちょっとだけ。ちょっとだけだから」
その切羽詰った様子に、あたしはつい応えてしまった。
「……なに?」
「ちゃんとさ、俺の気持ち伝えたいんだ。さっきはなんか、慌しかったし」
「別にいいよ。そんなの。ちゃんと香世子ちゃんに言ってあげなよ」
「うん、いや、だからさ……もう香世子とは、ないんだ」
「ないって?」
「なんていうか、気持ちが」
「そんなの、可哀想だよ」
「しょうがないじゃん。いつの間にか千佳ちゃん好きになっちゃってたし」
「……亮太はそれ知ってるの?」
「いや、秘密だよ」
「なんで?あたし亮太の彼女だよ?健二君と付き合えるわけないじゃん」
「千佳ちゃんは俺のこと嫌い?」
「別にそんなんじゃ……。でも今日ちょっと嫌いになった」
「それは……謝るよ、ごめん」
わざわざ呼び止めたわりには、煮え切らない会話を続ける健二君。
その後も、こんなやりとりが数分続いた。
まるで会話をしたいんじゃなくて、
あたしを引き留めたいだけのような、そんなやり取り。
すると、もう夜も遅く、人通りが無かった亮太のアパート前の道路に、
向こうから近づいてくる車のライトが確認出来た。
健二君の「あれは……」と呟く声。
それはやがてアパートの駐車場に停まり、そして中からは香世子ちゃんが出てきた。
それを確認したあたしの心臓は、ぎゅっと鷲掴みをされたかのように縮まる。
香世子ちゃんは、軽い足取りで階段を昇り、そして、亮太の部屋をノックした。
中からは、それを笑顔で出迎える亮太。
あたしはその様子を、ただじっと見つめることしか出来なかった。
昔、目の前で交通事故を目撃したことがあった。
眼前で人が車に刎ねられ、そしてその身体が飛んでいくその様子は、
とても現実とは思えない様相で、でも同時に目が離せなかった。
その時と、似ている。
事故にあった人は、命に別状はなく助かったらしいけれど、
今、あたしの身体は、血液が全部蒸発してしまったんじゃないかと
真剣に心配してしまうほど、刻々と冷たくなっていった。

恐怖に怯え、叫び声を上げることも、
怒りに我を失い、拳を振り上げることも、
そして愛する人に裏切られ、涙を流すことも最早叶わない。
目を閉じることも、耳を塞ぐことも、心を閉ざすことも出来なかった。
認めたくなくて、でも現実から逃げることすら出来ず、
隣で溜息をつき、そしてまたそっと唇を寄せてくる健二君に対し、
電池が切れた玩具のように、ただじっと身をすくめる事しか出来なかった。



珍しく、夜遅い時間に訪問者。
こんな時間に新聞の勧誘もあるまい。
訝しげに思うも、ドアノブを回すと、そこには香世子の姿。
「え?」
「こんばんわ〜」
彼女は小さく手を振り、ニコっと笑う。
「……どしたの?」
俺は苦笑いを浮かべ、そう尋ねた。
「え?聞いてないの?」
「なにを?」
「なんかね。健二が『亮太ん家遊びに行くからお前も今から来いよ』って」
ひょっとこみたいな口を作り、そう健二の声真似をする香世子。
「マジで?聞いてないけどなぁ。てか昼間遊んだじゃん」
「まぁ途中でお開きになっちゃったからってことじゃない?」
「そりゃそうだけど」
「まぁまぁいいじゃない。立ち話もなんだしね」
「俺の台詞だろ」
「あはは。しかし亮太の部屋も何年ぶりかな。結構片付いてるね」
そう言われて、悪い気はしない。
その感情が表に出ていたのだろうか、
「何ニヤニヤしてんの?」と香世子に突っ込まれてしまった。
「別に」
「ま、どーせ千佳ちゃんが掃除しにきてくれてんでしょ?」
図星だ。
「たまには自分でしなよ?愛想つかれちゃうよ」
「前に自分でしたら不満そうだったけどな」
「あー、世話焼き女房タイプなんだ。千佳ちゃんって」
「浮気も疑われたしな」
「マジで?うけるんだけど」
突然の香世子の来訪に驚いたものの、
追い返すわけにも行かないので、
二人して健二を待つことにした。

それから数十分、俺と香世子は、
TVゲームをしながら、今日の事を話した。
「そういやさ、千佳ちゃんどうだった?」
「ああ、一応病院連れてったけど、問題無しってさ」
「そか、良かったね。……あ」
「なに?」
「ううん。メール。あ、健二だ。なになに?
 『急用出来たからやっぱり行けない』だとー?
 くそードタキャンされたー」
「何やってんだか」
少し前の俺なら、この状況を喜んでいたのかもしれないが、
今となっては、千佳への罪悪感が沸くだけだ。
そんな気持ちが全く無いにしろ、他の女の子と夜に部屋で二人っきり。
香世子はそんな俺の気持ちに気づいたのか、
それともただの自衛のためなのか、
「ごめんね、こんな夜遅くにバタバタしちゃって。帰るね〜」
とすぐに帰っていった。
その後姿を見て、残念とも何とも思わなかった自分を、褒めてやりたい。
まぁ当然のことといえばそうなのだが。
千佳はちゃんと寝てるんだろうか?
電話をしたい気分だけれど、もし起こしたら可哀想なので、
もう一度メールだけ送ることにした。


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